日陰のエロスが放つ官能ポイント

日陰のエロスが放つ官能ポイント

吉野公佳 恋多きオンナいったいどこに彼女の魅力を見出すべきなのか。それを読み解く鍵は彼女の男性遍歴を見ていくことが出発点になる。吉野公佳には恋多き女のイメージが強くある。ところが、彼女と付き合ったとされる男性有名人の数は、彼女と同世代の恋多き女たちと比べてもそれほど多くない。

実際に彼女との交際が取り沙汰された男性の名前を見てもらいたい。まずは、「吉野公佳の芸能人生を変えたスキャンダル」でも述べた清原和博、その後はネプチューン名倉潤、嵐の大野智である。彼らとの恋愛模様や破局の原因などは、週刊誌を度々賑わせているので記憶に新しい人も多いのではないだろうか。 スポーツ選手、人気芸人、一流アイドルと、ここまでくれば彼女が落ち目な女優ではないことはわかるだろう。

元人気グラビアアイドルの肩書だけで、一流どころの芸能人との交際などできない。つまり、吉野公佳には、年令を重ねてもなお男を引きつける魅力が兼ね備えられているのだ。それは間違いないだろうが、いったい何なのか。そして、一流芸能人に抱かれてきた女の体がどんなものなのか、それらを意識しつつ見るだけでも価値がある。 実際、『m』で見せている彼女の身体は“ある意味”で見事なものだ。

程よいサイズのバストは健在ながらも仰向けになると重力に逆らえずに崩れはするものの、いまだにわずかな張りを残している。そして、濃い目の薄茶色とベージュの間のような色をした乳首も控えめでありながら、500円硬貨サイズを上回りそうなサイズも、視覚に痛々しさを与えない。アラフォーになると、乳首の善し悪しで肉体のコンデションが見えてくるところもある。

また、下腹部から胸の下までの薄さも見事である。伸びをすると肋骨の線が浮かぶのは痩せ過ぎなのではなく不要な肉がついていないだけ。女性器までスッキリとした体型からは、日頃の節制と天性のスタイルを維持していることも伺われる。 だが、体勢によっては隠せない緩みというものも生まれる。特に騎乗位のようなシーンでは下腹部の肉が緩まないように力を込めているのを肌の微妙な動きが教えてくれる。 そういった点を見れば、たしかに彼女の体つきは衰えている部分はある。シャワーシーンでは水を弾かないし、不意に見せる顔に刻まれたシワやクマは隠しようもないくらい、中年女性であることを見ている側に突きつけてくるところもある。

小島慶子のグラビア近頃では「美魔女ヌード」が世間の注目を集める。中高年向けの女性誌で40代の女性が自ら裸体をさらして評価を受けることを賞賛する風潮が一部には生まれている。 吉野公佳の身体もそんな美魔女たちと同世代のものだ。そして、身体からは老いが露骨に感じられるという指摘があっても否定出来ない。しかし、問題となるのは老いを本人がどのように受け入れているのかということ。その老いの認め方が熟女の好感度へとつながっていくからだ。

たとえば、元TBSアナウンサーの小島慶子は、72年生まれの現在42歳。高身長でスレンダーなところは吉野公佳と共通している。同世代であるはずの小島慶子は、アラフォーになって週刊誌でグラビアを披露しているが、彼女のグラビアからは「40でも綺麗な私を見て」という自意識が垣間見える。

それに対して吉野公佳の『m』で見せる肉体からは強気な演技とは裏腹に「もう若い頃の私じゃない」という、ネガティブな姿勢が見えてきて隠しようもない。 さきほども指摘したように、視聴者たちが比較しているのはおよそ20年も前の彼女である。それもわずか95年前後の1年間で記憶に刻まれた強烈な輝きを比較の対象にしているのだ。その姿に対して時を経て衰えたと見るよりも、成熟して老いをまとった彼女が晒している裸が、本当の意味ですべてを晒した彼女の本性を見せつけられていると思ってはいかがだろうか。

たとえば、彼女が出演した『インパクト』では、「演技」でありながら嫌そうな顔を隠そうとしなかった。 97年のスキャンダル以来、グラビアアイドルとしてはトップグループから早々と離脱したが、女優としては着実にステップを登っていた。たとえ、主役でなくとも演技の仕事は途切れることはなくいまだにオファーが続いている。出続けるという点において、女優のキャリアは相当なものである。 そんな彼女が露骨に嫌そうな表情をするというのは、演技をしていないということ。つまり、作品中では本音の吉野公佳を垣間見ることができたわけだ。しかも『m』のなかで不意に見せる表情には作っていない彼女の素の部分を読み取ることができるという。「あれほど嫌な顔をして演じる女はいない」との「逆」評判もAV業界では聞かれている。

「m」のワンシーンお金のため、メディア露出のため、芸能界での売り方のため……。 芸能界を長く生き抜いてきた吉野公佳には、作品によって裏側で自分の意図とは違う思惑が動いていることは周知のこと。だからこそ、たとえ「演じられていない」と指摘されたとしても譲れない一線というのがあるのだろう。そのあたりを注目して見てみるのも本作を読み解くポイントとなるだろう。

最後に、本作中で吉野公佳が男優に対して自分の体を誇示するシーンがある。ここで示しているのは身体ではなくプライドであるかもしれない。どんなスキャンダルにも批判にも決して屈しない。そんな覚悟を作品中に織り込んだ彼女なりのメッセージであると考えながら作品を見てみるという楽しみ方もできるだろう。